んとす…かつて広辞苑の最後に載っていた言葉

2021年7月25日日曜日

意味・使い方

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国語辞典からブログのネタを探そうと思い、後ろからめくってみました。
すると最後の見出しが"んとす"でした。

これを検索したらどんな記事が読めるんだろう?
その思い付きを実行した結果、目に入った情報をまとめたのが当記事です。

「広辞苑で最後に載っている言葉は?」


まずはこれ、クイズで定番の問い。

答えが"んとす"だというのは知る人ぞ知る話ですね。
何故なら第一版が刊行された1955年以来、この部分は変わらずだったからです。

それが2018年発売の第7版から"んぼう"へとバトンタッチ。
これにより、んとす氏は63年もの勤めを終えたのでした。

ぽっと出に地位を追われて。

というのも『広辞苑』には第六版まで"んぼう"という項目自体がなかったのです。
あれば初めから「最後の言葉」になっていたはずですからね。

それが今さら立項されたことで軽い驚きをもって受け止められました。
(それ以外に"LGBT""しまなみ海道"語釈間違いでも物議を醸しましたが。)

『広辞苑 第七版』読者の皆様へ
https://www.iwanami.co.jp/news/n23284.html

このことは『タモリ倶楽部』でも放送され、新たな雑学ネタとなっています。
※2018年3月9日放送「~クイズ王直伝!早押し虎の穴」より。

んぼう(ん坊)一覧


ちなみに"んぼう(-ん坊)"困った性質の人を表し、軽い侮蔑が含まれます。
しかし動植物に対しては一変、親しみを込めた呼び方になります。

◆ しりとりで使える? ◆

赤ん坊
暴れん坊
聞かん坊(利かん坊)
食いしん坊

隠れん坊
寂しん坊
立ちん坊
裸ん坊

あめんぼう
さくらんぼう
つくしんぼう

こうして書くと昔から馴染みのある言い回しです。
むしろこれまで広辞苑に採録されていなかったのが不思議なほど。

ほかの辞書では?


現に最後の項目が"んぼう"となっている辞書は珍しくありません。
一般的な辞書・辞典の最後の言葉は概ね以下のいずれかです。

んぼ
んず(文語からの転用)
んとする
んばかり
んん
んんん
んーん

『三省堂国語辞典』は"んんん"でしたが、第七版から"んーん"となっています。
その意味は言葉に詰まった時の「うーん…」や、感嘆した時に発する声です。

英和辞書のラストは"ZZZ"が多い気がします。

その直後はだいたい"ZZZAT"でした。
これは雷の音を表したゴロゴロドーン!や放電音(バリバリバリ…)のオノマトペです。

んとす(むとす)の意味


広辞苑の新版が話題になったのにはもう一つ理由があります。
それを理解するにはまず、"んとす"の意味を知らなければなりません。

このヘンテコな語句は古語の連語~しようとする」という意味です。
本来は"むとす"と書かれていました。

口語形では"んとする"になります。

「10年になんなんとする歳月」の"なんなんとする(垂んとする)"など。
これは"なりなんとす"の音変化で「もう少しでその状態になりそう」の意。

時代とともに発音や表記が変化しているのが見て取れます。
折角なのでもう少し詳しく説明しましょう。

品詞分解と現代語訳


「む」→推量の助動詞
「と」→格助詞
「す」→サ変動詞

訳①
~であるだろう、~だろう

推量(推し量ること)+助動詞(時制)ですから、今後の予測となります。

訳②
~するつもりだ、~しようと思う

古文の"む(ん)"には6種類の用法があり、そのうちの一つが「意思」です。
前後の文脈で発言者が「~したい」と言っているのが分かります。

粋な例文


この語から派生したのが同じく推量助動詞の"むず(んず)"です。

ちなみに"むず"は会話やモノローグに使われることが多く、話し言葉の印象です。
逆に"むとす"は少し硬く、文章ならではの言い回し=文語体といった感じ。

ところが、さすが広辞苑はユニーク。
例文を「終わりなんとす」とすることで愛嬌を添えました。

これは良い終わり方! 広辞苑の最後の載っている言葉に感嘆すること間違いなし!
https://twicolle-plus.com/articles/377514

手前の"な"は完了の助動詞"ぬ"の未然形です。
"なんとす"で「~してしまおう(とする)」「~してしまいそうだ」と訳せます。

つまり「終わりなんとす」で「終わりにしよう」→「これにて終了」となる。
あの分厚い広辞苑の最後の最後の例文が(現代語訳で)「おしまい」だったんですよ。

締めくくりにピッタリで洒落ていると思いませんか?
それで改訂を惜しむ人が少なからずいたということです。

古文でお馴染み


ここまで読んで既視感を覚えた人、それはおそらく授業の記憶です。
『土佐日記:帰京』や『史記:鴻門之会』など高校の古文が過ぎったのでしょう。

でも実は、小学校の国語の教科書でも目にしていたんですよ。

古文


「いとはつらく見ゆれど、志はせむとす」(土佐日記)
「船に乗りなむとす」(〃)
「かの国の人来(こ)ば、みな開きなむとす」(竹取物語)
「あひ戦はむとすとも」(〃)
「是より野越にかかりて、直道をゆかんとす」(奥の細道)
「いま秋風吹かむ折ぞ来むとする」(枕草子)
「畝火山木の葉さやぎぬ風吹かむとす」(古事記)
「いかなる物の隙ひまに消えうせむとすらむ」(源氏物語)

『土佐日記』の「帰京」は赴任先から帰ると自宅があばら家になっていた話です。

留守の預かりを申し出てくれた隣人に謝礼を払っていた紀貫之。
ところがいざ帰宅すると、庭には謎の池(水たまり)が発生し松は枯れ木という有様。

隣の人はこれまで何をしていたのか。

呆れつつ「家と一緒に管理人の心まで荒れてもうたんか?」と皮肉る京都人・紀貫之。
「そやけど帰ってきた手前、挨拶はせなあかんし手土産もいるわな」とボヤいている。

ここで言う「志」とは贈り物、厚意のこと。
家を潰されようが、社交マナーとして心付けを用意せねばならないのでした。

漢文【書き下し文】


「人の将に死せんとするや、其の言や善し」(論語)
「将に江に順ひて東に下らんとす」(史記)
「且に虜とする所と為らんとす」(〃)
「沛公旦日百余騎を従へ、来たりて項王に見えんとす」(〃)
「且に楚に至らんとする者有り」(〃)
「噲即ち剣を帯び盾を擁して軍門より入らんとす」(〃)
「日月流るるが如く、老い将に至らんとす」(十八史略)
「孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り」(孟子)
「文公将に出でんとす」(戦国策)
「趙且に燕を伐たんとす」(〃)
「帰りなんいざ、田園將に蕪れなんとす」(帰去来の辞)

漢文では再読文字の"まさに(将、且)"とセットになること多し。
ちなみに「鴻門之会」の「見えんとす」の読みは「まみえんとす」です。

"まみえる"は、会うの謙譲語「お目にかかる」と同義。
偉い人のご機嫌を伺いにきたってことですね。

"んとす"が付くと「お目にかかろうとする」になります。
カッコよく訳すなら謁見・拝謁・伺候・お目通りなどの言い回しを使ってください。

訳例
「翌朝、沛公は項王の目通りを乞い百騎余りの手兵を従え鴻門に馳せ参じ……」

ところで、まみえるを「相まみえる」と書くとニュアンスが変わります。
先頭に「相」が付くことで「互いの顔をつきあわせる」となり、同等の立場に降格です。

対戦試合の実況でよく聞く「遂に相まみえた両者」ってアレ。
この流れで上司・部下の間柄からライバルになったと考えると熱い展開です。

それと余談ですが「まみえ」は東京の方言で眉毛のことを言うそうですよ。
べらんめえ以外の江戸弁を初めて知りました。

詩歌/俳諧


「われは草なり 伸びんとす」(高見順
「われは草なり 生きんとす」(
「うすべにに 葉はいちはやく萌えいでて 咲かむとすなり 山桜花」(若山牧水)
「いちはつの 花咲きいでて 我目には今年ばかりの 春行かんとす」(正岡 子規)

『われは草なり』は小学校の国語の教科書に載っています。
そのため知名度も高く、群読や独自に節を付けた合唱も行われています。

坂田寛夫の『ぼくは川』や新川和江の『わたしを束ねないで』と似ていますね。
しかし原著は微妙に異なり、教科書版の最後の数行は改稿によるものです。

原典はもっとシビアで、当時の社会風刺と受け取る人もいます。
創作された時代背景と照らし合わせて読むと印象が変わるようです。

高見順(1907-65)「われは草なり」(1945年):戦後(8/15の後)、
新たに「ああ/生きる日の/美しき/ああ/生きる日の/楽しさよ」が付け加えられた!

https://blog.goo.ne.jp/rasuga58/e/f9a00c4c0e412e0e5a7d602e0cc94c35

同時に、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に似た「理想の生き様」とも読めます。
擬人法ではなく比喩として読んだ場合、「われ(草)」は作者自身となるからです。

「伸びんとす」とは?


「伸びんとす」を現代語にすると「伸びようとしている」で、今が伸び盛りということ。
同じく「生きんとす」は「生きていこうとしている」生命力・活力の顕れです。

こう書くとポジティブですが、元は少し毒を帯びた内容でした。

まず出典からして不穏。
原著は『敗戦日記』という作者の日記です。

それも昭和20年に書かれた箇所だけを抜粋して書籍化されたもの。
敗戦直前・直後の市井の様子などが綴られています。

特に目を引くのが終戦にも敗戦にも無感動な人々の描写。
あまりにも疲弊しすぎて感情が麻痺していたんでしょうね。

もしくは「絶対に勝つ」と信じていたので誤報を疑い反応に窮したのかも。
現に私の祖父は冗談だと思ったそうです。

いずれにしてもその様子は機械的で、ただ生きているといった印象です。
この忍苦と生存本能という点で当時の人々と野性の植物は似通っています。

「ただ生きている」のは虚しいようで、しかし状況によっては感謝すべきこと。
詩の"草"は戦後の日本人であり、その一人である作者が望む生き方ではないでしょうか。

("青人草"や"民草"など、人民を草に例える言葉は古くからあります。)

特に「生きんとす」が咎め立てされない環境への憧れと、世はかくあれという願い。
生きたいと望むことが社会的に許されなかった戦時中の反動のようです。

そして「伸びんとす」の宣言通り、まもなく日本は高度経済成長期を迎えるのです。

小ネタ&まとめ

最後に「んとす」にまつわる雑学を紹介します。

文中に見る機会は減りましたが商標に使用されていたりします。
1000年の間に助動詞から名詞に進化したわけですね。

太宰治も書いてるよ

又、かすめむとする者、ひとりもなかった。(HUMAN LOST)

HUMAN LOST 太宰治 -青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/271_15084.html

"むとす"を小説で読むのは昭和初期が最後でしょうか。
それ以後は意図的な文語調か擬古文でしか見掛けなくなりました。

ヒップホップ界で活躍

岡崎体育と愛はズボーンのコラボユニット名が"いざゆかんとす"です。

"行かんとす"は「行こうとする」、「行くつもりだ」。
これに"いざ"が付いて「いよいよ(いずこかへ)赴こうとしている(ようだ)」???

どうして「いざ、行かん」じゃないんだろう。
このユニットの活動が不定期なことと関係があるのでしょうか。

日本酒の銘柄に採用

福岡県の飯塚市鎮西地区で収穫された米を用いた純米吟醸酒「せむとす」

せむとす試飲会
https://miyanouegenki.exblog.jp/238390777/

2018年のフードエキスポ九州に出品されていました。
しかし基本的には同市内の商店街でしか見掛けない?レアなお酒です。

「まさにきたらんとす」の意味

将来⇒将(まさ)に来たらんとす→今にも来ようとしている
未来⇒未だ来たらず→未だ来ていない

辞書に載っている説明。
将来や未来の意味を改めて調べることがなかったため今ごろ気付きました。

そうか、熟語はもともと漢文だから漢字の組み合わせが文章になっているんだ。
単語として見ることに慣れきっていたので目から鱗でした。

(中学校で習ったはずですが‥‥‥)

「言わんとする」を英語で言うと

get the message

相手の気持ちを察すること、以心伝心を表す慣用句です。
そこから、「言わんとすることが伝わる」と訳せます。

***

それはさておき、以心伝心は禅宗用語というのも今知りました。

一つの項目から芋づる式に知識が増えていく――、辞書って面白いですね。
同時に自分が母国語すら危ういということがよく分かりました。

勉強がてら、また何か調べてみようと思います。

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